とにかく好き!って言いたい星人

〜これが好き!ここがすごい!あれも素敵!と、とにかく言いたい星人の私〜

でも恨むかどうかは自由

つい先日、急に父の右半身が動かなくなった。

私はその現場に居合わせなかったので父の様子を目の当たりにしてはいないが、お昼過ぎ頃、急に足が動かせなくなり、右腕もだるくて動かせない、でも痛みは全くない、と突如言い出した。

 

その場にいた姉が近くの大きい病院にすぐに電話をかけて何科を受診したらいいか聞いてくれた。「脳神経外科を受診してください」と返答がもらえた。

 

その後帰宅した母の運転のもと、父はすぐ病院受診に向かった。

 

父の様子や訴え、そして脳神経外科受診の勧めの一連のことを思うと

父の脳に何か問題があって、神経系の異常による身体への影響なのか、とか

もしかして脳梗塞…?とか嫌な考えが次々に浮かんで胃がずっと浮いているような気持ち悪さがあった。

 

恐ろしくて、そして急に訪れた出来事に脳が処理できない状態で、でも父と母が病院から帰ってくるのを待つしかなかった。

 

そしてそんな状態で我が家で待っている時に、隣で姉が急に私に呟いてきた。

 

「なんか、こんなことが起こるんじゃないかと最近実は思ってた。」

「今までしたきたことのバチがきっといつか当たるって。」

「お父さんがお母さんにしてきたこととか、そういうことのしっぺ返しみたいな。」

「そういう気がしてた。」

 

私は姉のその言葉を聞いて率直に悲しいな、と思った。

 

以前の私だったら、きっと姉の意見に同調していたと思う。

だって実際、そういうことはこの世界であり得ることで、私も人に与えたものが自分に返ってきた経験をしたことがある。

そして痛い目に遭っている人を見たこともある。

結局はブーメランなのだ。

人に言ったこと、したこと、全ては自分に返ってくる。戻ってくる。

 

ザ、亭主関白男の父。暴力を振るわれたことはないが言葉や威圧的な態度は本当に昔からひどかった。

機嫌やお酒の入り方によって急にこちらに怒号が飛んでくるから、小さい頃から父の顔色ばかり伺って過ごしてきた。そのせいなのか大人になっても人の顔や言動や機嫌の波動を伺う癖が抜けない。

 

私に怒ってくれるならまだよかった。でも父は母に怒りを向けてしまうから、本当にやるせなくて、それが何よりみっともなくて許せなかった。

 

そうやって生きてきた父の今までのことが、父の身体への異変として現れたと言われても

確かに、本当にそうかもしれないな、と思ってしまうほどには父の今までのことがありすぎた。

 

 

 

ずっと父のいない世界で生きてみたいなぁ、と思っていた。

自分にとっては「父親」というより「血のつながった男の人」という言葉の方がしっくりくるかもしれない。

 

彼が過去に私に言ってきたこと、してきたこと、母に言ってきたこと、してきたことがどうしても許せない。もう自分の中で終着していたと思っていた過去の父との出来事がある日突然沸いてきて思い出して怒りが再燃してきてしまうこともたまにあった。

 

結局父に対しての自分の中にある異常な感情、傷がある。ずっと、ある。

これ、いつ消えるのかな。そもそも消えるのかな?

もういいか、何も手を加えようとしなくても。

許せなくても、いいか。

 

私は父が死んだ時に、悲しむことができるだろうか?

 

そんなことさえふと考えることもあった。

 

 

しかし最近、自分のことを見つめる機会が多くなってきて

それは意識的にそうしているのだけれど

私が父に対して長年抱えてきたこのどうしようもない想いみたいなものも深掘りすることが増えてきた。

 

それはこの厄介な芯みたいなものを見つめることができなくては、きっとずっと堂々巡りで変われない気がしていて、そして私はいいかげんこの鬱屈したものから這い出たくてしょうがなくなったからそう思える時が来たから、深掘りして掘ってほって見つめてみた。

 

そして最近私がこんなにも父を受け入れることが難しかった理由がなんとなくわかってきた。

 

それは、父を通して「自分の本当に嫌いな姿」を見ていたから。

 

母を大事に大切にできない自分。

自分の都合で母に当たる情けなさ、心の未熟さ。

自己中心的な考えによる行動の仕方。

家族を、本当の意味で愛せない自分の不甲斐なさ。

 

私の中にもあった父と似た自分のそういう側面を、私は父を通して見ていて

私はそんな自分が大っ嫌いで、そしてその部分を多分に含んだ父がその姿を私に見せてくることで自分の嫌いなところを見せつけられているようで、ヤダヤダ、見たくない、嫌い、そんなのを見せてくる父が嫌い、となっていたんだということが、わかった。

 

そしてその根底には「本当はもっと愛して欲しかった」という自分が隠れていることもわかった。

 

自分から湧いてくる「嫌い!」とか「怒り」の感情の中には自分の本音が詰まっていることがわかった。

 

あ〜そっか、私って寂しかったんだなぁもっと見て欲しかったし抱きしめて欲しかったし愛されているって実感が欲しかったんだなぁと思った。

 

父は私だった。

父は私であり、私は父だったのである。

 

小さい頃は私が母にあたるようなことはなかったので、単純にその行為をする父を人としても父としても旦那としても1人の男性としても軽蔑していたし近づきたくないくらい怖かった。恐怖の対象のようだった。

 

でも今自分が大人になってみて父と同じように母に怒りをぶつけてしまう時がある。

結局自分はあの時の父と同じ年齢になって父と同じ情けないことをしている。

 

私だって同じことしてるじゃん、最低じゃん、という

あんなに嫌いだった人に、自分もいつしかなってしまっていた、という愕然。

許せなかったあの時の父に、私もいつしかなっていた。

 

なので姉が父に対して言ったことを聞いて、私は自分に言われた気がしてしまって「それはなんて寂しくて悲しい言葉だなぁ」と思えて、何も言葉が返せなかった。

 

でも姉も私と同じように父に格別のコンプレックスを感じて生きてきて

しかも彼女の方が我慢が効いてしまって発散できないタイプだから私よりも奥底に隠し続けてるものはかなり多くて大きいと思う。

 

なので姉がそう思うのもすごく分かるし、そう思っていいし、実際そうなのだとも思う。

でも今の私は頷けなかった。

そんな自分に自分が一番びっくりした。

 

あんなに受け入れられなかった父を、父を通して嫌いな自分を見て、いつの間にか私は変わっていた。

 

大っ嫌いな父だけど、その「大っ嫌い」の中には自分が自分に対して思っている「大っ嫌い」が詰まっていた。

 

本当に手がかかるし面倒くさいしわがままだし自分主導でないと気が済まないし我慢ができないし機嫌の波は激しいし誰かと一緒に生きるの、本当に向いてない、自分。

 

こんなにしてもらってるのに。

無職なのに家に居させてもらってるのに毎日あったかいご飯を食べさせてもらってるし

あったかい湯船に浸からせてもらえる 気持ちのいい布団で寝させてもらえる

恵まれた環境に居させてもらってる

 

感謝しなきゃいけないのに。感謝はしてるけど、でもその存在に時に疎ましく思ってしまう自分もいる。

母に、家族に、ひどく当たってしまう自分がいる。

私は本当の意味で、家族を愛することができていない、と気付いた。

 

 

私にとって「感謝」とは苦しい言葉でもある。

幼少期から父に浴びせられてきた「お父さんに感謝しなさい」「これだけしてあげたんだからお父さんにありがとうと言いなさい」の感謝の強制呪文である。

 

感謝は素晴らしい。大切。分かってる。

でもそれは自然に沸いてくる感情だから。強制させるものではない。

いつでも見返りを求めてくる父のその教えは苦しかった。

(っていうか親が自分の子供に感謝を強要するって何ごと〜←IKKOさんを思わず召喚)

 

だから家族に感謝できない自分は愛してもらえない。

という子供の頃に植え付けられた恐れみたいなものもあって今でも雁字搦めになってしまう。

 

そりゃもちろん感謝を忘れない、そう思える自分でありたいよ常に。

でもこちとらあまりにも未成熟な人間すぎて、そう思えない時も、あるよ。情けないけど。

 

だから、そういう「人としてどうなの?」って思う自分のたくさんの側面も見つめて許してあげられたら

自分を許すことができたら、父を許すことにも繋がってくるのだと思う。

私は私を許すこと、愛することができてなかったから、父のことも真っ直ぐ見ることができなかった。

 

だから自分で自分を許すことができたら、それは父に向けて、許して愛してあげることもきっとできる。

だって私は父で、父は私だから

 

 

そんなことを父が病院に行っている最中、なんだかずっと脳内でぐるぐる考えてしまった。

あ〜なるほどなぁ、そうだよなぁとか自分で自分と会話して思いながら

もう外が真っ暗になる頃ようやく父と母が帰ってきた。

 

そして思わずびっくり。

父はすっかり自分で歩くことができていた。

検査結果もどこも異常なし。脳にも何も異常は見られなかったという。

「整形外科で一度診てもらった方がいいかも」という助言だけもらって帰ってきた。

 

めちゃくちゃ肩透かしを食らったような気分になった。

 

今では以前と同じようにピンピンして自ら歩いて生活できている。

人間の体は不思議なもので、こういうことが本当にある。一体あれはなんだったわけ?という不思議な出来事。

 

何もなかったのなら、良かった、と安心すると同時にどこか腑抜けてぽかんとしてしまった。父の右半身に起こったあの急なストップは一体何だったのか……

何もないのならそれに越したことはないが、生まれて初めて父の身に何か大きなことが起こってしまったかもしれないという瞬間を味わってみて

やっぱりいい気分はしなかった。

 

小さい頃はあんなに息巻いて圧力かけてきた亭主関白の父も、歳を重ねて本当に日々おじいちゃんみたいになってきた。

あの頃みたいにいきなり訳も分からず激昂することはほとんどなくなったけれど、未だに父の不機嫌そうな声が聞こえてくるとそれだけで心臓がバクバクして、血の気が引いてしまう。

身体が勝手に怖がってしまう。

 

心についた傷が癒えるには時間やいろんな要素が必要だけれど

改めて今回父の身に起こった出来事をきっかけに、今の自分を知ることにも繋がって良かった。

 

私が棺桶に入る頃には、今あるこの傷口が少しでもかさぶたや見えないくらいの痕になっていてくれたら…風化してくれていたらいいなぁと思う。

癒えてないままの傷口のままでもいいけど。

 

父は父を通して私にいろんな気付きを与えてくれる存在だなぁ、と最近になって

ようやくそんな風に思えるようになってきた。

私の父は私にとってのそういう役回りを担ってくれるために、そういう父であったのかもしれない。

 

 

ありがとう

 

 

hohonohoppeta.hatenablog.com

↑私と父に以前あった出来事についてはこちらの記事でも。

楽しいお話ではないのであまり推奨しませんが😅アセアセ